−父の死−
少し離れた父の会社の事務所を通り過ぎて、駅前に客待ちしているタクシーのドライバーに、まず父の安否を確かめようと考えた。いきなり父に逢うには、せっかちすぎる。父にも心の余裕を与えなくてはと思ったからだ。
以前、父の会社の名前は「池田観光、池田ハイヤー」といった。今のようにマイカーが普及していない時代だったから、大型ハイヤーやバスを使って、観光客の求めに応じては全道一周をやっていた。一度、車庫を出ると、そのまま10日も半月も帰って来なかったという。その間、無線でやりとりしていた。旅館も経営していた。その会社の名前が池田町のワインにちなんで「ワインTAXI」に変わっていた。
年の頃、40歳前後のドライバーに父の事をそれとなく聞いてみた。「社長はお元気ですか?」。彼は「いや、今、体を悪くして入院中」だという。若い奥さんが社長の代理だと説明してくれた。何かおかしい。ふと、不吉な予感が、胸さわぎがした。
さらによく確かめてみると、今から2年前の1990年(平成2年)7月31日、83歳でこの世を去ったという。
「もう三回忌ですね」
と、こともなげにドライバーは教えてくれた。
「えっ!」
私の全身からすーっと血が引いていくのがわかる。もうあとの言葉が続かなかった。体が小刻みにふるえている。背中に冷たいものを感じた。思いがけない返事に、私は自分の感情を必死に抑えた。私は抱いていたアイに一人つぶやくように話しかけた。
「アイ、アイの父ちゃん、死んだんだって。もうこの池田にいないんだって。天国にいったんだって。アイ、どうしよう……。黙ってこのまま町田へすぐ帰ろうか?」
アイは、私の心を察したのか、悲しそうな目でじっと私を見つめている。
「ああ、人生は何と無情なんだろう」
思わず空を見上げた。
列車が到着して、駅からアナウンスが流れて来た。乗客がひとかたまりになって降りて来た。皆、若者ばかりだった。それぞれラフなスタイルで手に荷物を持ち、その笑顔にくったくがない。楽しそうに、はしゃいで私とアイの前を通り過ぎて行った。
父の会社のタクシードライバーに父が市民墓地に眠っていると聞いて、急いでアイン号を走らせた。十勝平野の広い原野の小高い所に市民墓地があった。
日差しは強く、めまいを感じた。3時間経っても父の墓が一向に見つからない。まだ、ほんの少ししか見てはいないのに。何千とある墓の中から、どうしたら一体、父に会えるのか気が遠くなる。
私は叫んだ。
「どこにいるのか応えて下さい! あなたの息子が遠くからはるばる会いに来たんですよ。何故黙っているのです。私の心が通じたなら、何でもよい。サインを送ってください。『息子よ、オレはここにいるぞ』って」
その時、不思議な事が起きた。車のクラクションが鳴った。振り返ってみると先ほどのドライバーがいた。
「まだ、見つかりませんか?」
「何の手応えもなくて……」
「じゃあ、無線で聞いて見ましょう」
と、親切に言ってくれた。
「もしもし、○号車です。先代のお墓はどこですかね」
「えっ、何」
「先代のお墓、あっ、オジイチャンね」
「ガンケイ寺よ」
若い女性の声であった。ドライバーはすまなそうな顔付で「いいかげんな事を教えてゴメンなさい」とあやまった。
真宗大谷派、雲松山「願慶寺」。ここの立派な納骨堂に父は眠っていた。中央に釈迦如来が慈顔をたたえ、その最前列の右手の一番奥に、父はひっそり眠っていた。
「法名、徹修院釈隆道
享年83歳 俗名 古後道夫」
私は母の死を父に報せた。又、私たち親子を助けてくれた優しい愛川の父の事。1966年(昭和41年)5月7日、54歳の若さで死んだことなど。母の死からもう、26年も経っていた。
父の死に立ち合えなかったのは残念である。だが、私は父に向かって話しかけた。
「お父さん。あなたと母の縁は薄かった。それも仕方ありません。でもね、喜んで下さい。あなたと母の二人分の生命が、確かに私というこの存在の中に、しっかり生きているんです。この事実は厳粛です。私は今、あなたの前にしっかり立っています」
「親子の縁も悲しいけど薄かった。しかし私にとってお父さん。あなたは天にも地にもかけがえのない大切なお父さんでした。私の生命を生み出してくれて、本当に有難うございます」
私は父の仏壇の中に納められている位牌に向かって呼びかけた。
はらはらと熱い泪が頬を伝わり、ぬらしていく。一人静かに父と語らい、私は池田町に別れを告げた。
(つづく)
「心の旅路」より抜粋