祈れる幸せ

戸村裕司

 

 ごくありふれた日常にも、緊張を強いられたり、不安になったりすることがある。そんなとき、心の中で、「落ち着け、落ち着け、南無キリスト、南無キリスト」と強く祈り続ける。

 

 「南無キリスト」とは和尚から、山に入って祈る時におしえられた。山に入る時、一番太い木に抱きつき、山々にキリストにある者として登らせていただくと伝える。すると、木から木に、そのメッセージがサーッと伝わるのだという。

 

そこで、一足一足、「ナンムキリスト」と祈りながら登っていく。木に何が伝わったか、私にはわからなかったが、「南無キリスト」という言葉が、様々な霊や山の危険から守ってくれるのは感じられた。

 

 その言葉が、日常にも口をついて出てくるようになった。時間に追われたり、いろいろやることが重なったり、危険の多い道路を走っているときなどだが、祈ったからといって、ただ、仕事をこなして、時間に間に合うだけ。安全運転できるだけのことだ。あまりに個人的な出来事で、ほかの人の役に立ったとか、いくらもうかったとかとは一切関係ない。情けないくらいそうだ。

 

しかし、最近気づいたことだが、自分は心から「南無キリスト」と言っているらしい。そして自分なりに危機を感じたり、不安に思った時、キリストに祈れてよかったと感謝している。失礼な言い方かもしれないが、キリストがしっくりくる。心に手ごたえがある。

 

 昨年、愛の樹ふるさとの家にキリスト像が立ち、十字架が掲げられた。そして、屋根裏の祈祷室が整えられ、その前室には、町田第一集会所から、先に天に帰られた方々のお写真、由来の品々が移された。それはわたしにとっても、とても重要なことだった。

 

 いつでもここがある。それは和尚に連れられていった山や滝と同じように、ふるさとの家がひとつの聖地であるということだ。

 

だれにだって、そうした場所、そして、心に本当にしっくりくる言葉(祈りでもなんでも)があると思う。それはささやかな人生航路の指針になるだろうし、安らぎの港にもなると思う。

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