地震は人類の終末における災禍か?

聖書によれば地震は異常現象、この世の終末における神の審判として語られています。

去る1995年1月17日、早朝(午前5時46分)、淡路島を震源地として発生した阪神大震災の惨禍は目をおおうばかりです。報道によれば、マクニチュード7の双子地震であったと報告されています。

人々は、この大惨事を目前にして、いかに人間の存在がちっぽけで無カであるかをいやというほど知らされたのではないでしょうか。

1月24日現在、死者5,028人、行方不明者106人、負傷者26,284人、家屋損壊56,289戸だと報道されていました。

各新聞社の紙面には、様々な見出しがおどっていました。「関西経済圏機能マヒ 施設被害が甚大 生産再開見通しつかず 4兆円超す損失確実」または「倒壊した大都市防災 技術文明の悲劇」等々です。また、「政府の大震災に対する初期対応の混乱と遅れ 非常災害時にあぶり出された無能ぶり」

どれもこれも、今一つ何か大切な事が欠落しているように思えてなりません。

この大震災によって尊い人命が失われ、恐怖と苦しみの中で犠牲になられた人々のご冥福を心底より深くお祈り致します。あわせて被災者の方々が1日も早く元気を取り戻して、再建に向かって立ち上がって下さることを祈らずにはいられません。

今回の大災害は私たちにいろいろな事を深く考えるチャンスを与えてくれたように思います。

村山富市首相は、地域防災計画などの全面見直しを声高に叫ぴ、官邸機能強化について記者団に「総合的に考えて何が必要か。何をしないといけないか、きちんと詰めなければならない」と述べたといいます。

「諸外国の情報管理、緊急対応について勉強したい」と語ったのは、官房長官です。これが日本の現状でしょう。

私たちは、この大きな犠牲の中から貴重な教訓を得ると同時に、天から警鐘を与えられたのではないでしょうか。

それは人間が作り出した、科学、様々な技術、文明、文化、またイデオロギーなど、それ自身、真実性を持っています。しかしそれがすべてであり、一切であり、それによって解決されると主張する時、そこに思い上がりが潜んではいないでしょうか。この点に強い危惧の念を抱いています。

部分的な成功に酔いしれて、それがあたかも絶対的なものであるように錯覚した時、私たちは大切なものを見失い、恐ろしい落とし穴に落ち込んでしまうのです。


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