10月という月は、アメリカに暮らす皆様にとって、フィリピン人のアメリカへの入植という歴史、遺産を記念すべき、とても大切な月間であると伺いました。この記念すべき時に、皆様にご挨拶を送らせて頂けることを、大変光栄に思います。
パスクア主教と私たち「愛の樹」グループ愛の会との間の友情は、1991年、クリオン島の助けを必要としている人々を通して始まりました。当時は100年に及んだハンセン病の隔離島でした が、1995年に政令都市クリオン市になりました。
ある日、私たちのもとに一通の、助けを求める手紙が届き、受け取った私たちは、送り主に会いに行くことを決めました。 クリオン島に向かう途上で、当時南部ルソン管轄区担当だった、パスクア主教に初めてお会い したのです。
翌年、貧しさゆえに学校に通えない子どもたちのために、アガペ教育プログラムを立ち上げました。
そこでクリオン島の実情を訴える小さな冊子を作り、足長おじさん、足長おばさんを広く募りました。ありがたいことに、この小さな冊子を通して、または口コミにより、この呼びかけに応 えてくれる方たちが、徐々に広がっていきました。
おかげで、12年間に亘ってこのプログラムを続けることができ、その後は、このプログラムを共に育ててきた、クリオン愛の会のフランシスコ・エスピナ会長が引き継ぎ、私たちとの間の友情は今に続いています。アガペ教育プログラムを通して学んだ子どもたちは、現在、社会の様々な分野でそれぞれに活躍しています。
これらの諸活動を通して、パスクア主教と私たちは、お互いへの理解と信頼が深くなっていき、固い絆に結ばれました。
パスクア主教も、私たちのリーダーである牧師、故愛川パウロ英雄伝道者も、その生涯をかけて、まこと純粋に、神様と人々にその身を捧げました。
人々のために尽くすことに、一切のためらいがありませんでした。たとえそのために自分の身が、不利益を被ることになっても。糾弾されることをも恐れませんでした。
主教が、クリオン愛の会の会長エスピナさん(この人もまた、社会的弱者への献身者)と一緒に、日本に訪ねられた時、オショチ(愛川牧師の愛称)は「息子よ」と呼びかけました。
2010年、私たちは、主教が故国に帰れなくなったことを知らされました。人生をかけて人権を保護し、虐げられている人たちを権力から守ってきたからです。そして亡命申請をするに至りましたが、未だ許可されていない状況です。私たちは、彼のために何をすべきか、必死に祈りました。
この30年に及ぶ、共なる歩みを振りかえる時、神様の御前にひれ伏すほかはありません。神様 の御愛による御導きがなければ、数多の困難、試練を乗り越えることはできませんでしたから。主教の、深い苦悩でさえも、すべては神様からの贈り物であると信じます。
皆様のご祖先が過ぎ越してこられた苦難の日々を、そして、どれだけご先祖や皆様ご自身が身 を粉にして働いてこられたことかを思う時、この「フィリピン系アメリカ人歴史月間」に、謹んで お祝いの心を送らせて頂きます。アーメン✝
イエス・キリストの御名によりて
2020年10月
「愛の樹」グループ愛の会
この書簡は、文中に登場する、アメリカに亡命申請し、現在シカゴのフィリピン系アメリカ人教会で牧会するエリエゼール・M・パスクア主教に依頼され、フィリピン人がアメリカに上陸した1587年10月を記念するフィリピン系アメリカ人歴史月間に合わせて送ったものです(原文英語)。