クラウディオ・アバドさんは七歳の時、魔法にかけられた。ミラノのスカラ座で聴いたドビュッシーの夜想曲。舞台上から光や色が放たれ、絵が見える気がした。少年はその夜、決心したという。「いつの日か自分もあんな魔法が使えるようになろう」▼名指揮者アバドさんの訃報に接し、三十年近く前に録音されたレコードを聴き直した。彼がロンドン交響楽団を振ったラベルのボレロ。クライマックスで、強烈な叫びが聞こえる。演奏する楽団員たち自身が興奮のあまり上げたという雄叫(たけ)びだ。オーケストラも魔法にかけられていたのだ▼バイオリニストだった父はアバド少年に教えたそうだ。「誰かと一緒に音楽をやる時には、自分がうまく弾けるとか、よい耳を持っているとかいうことはそれほど重要ではない。音楽においても日常生活においても、ほかの人の言うことに耳を傾けることが最も大切なのだ」(『アバドのたのしい音楽会』評論社)▼二〇〇〇年にがんで胃の全摘手術を受けてからアバドさんは体調不良に苦しみ続けたが、指揮者仲間のサイモン・ラトルさんにこう

語っていたという▼「それが悪いことばかりでもないんだ。どういう訳か自分の体の内部からの声が聞こえるようになった気がする。胃を失った代わりに、内なる耳を与えられたようなものだ」▼今は、名演が終わった後の静寂に耳を傾けたい。

東京新聞 1月22日洗筆

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