見出しの「凡庸な悪」とはドイツ生まれのユダヤ人哲学者ハンナ・アーレントの言葉です。彼女は人類が今も陥りそうな悪としてそう述べていたのです。

 東京の古書店街、神保町の映画館「岩波ホール」へ行って驚きました。平日の午後、切符は一時間前に売り切れていました。映画はドイツの女性監督マルガレーテ・フォン・トロッタさんの「ハンナ・アーレント」。

 次の日、早くに並んで入れました。客席は老若男女、幅広い層で埋まっていました。

◆アーレントの傍聴記

 映画は戦後米国の大学教授となっていたアーレントによる、一九六一年にイスラエルで開かれたアイヒマン裁判の傍聴が中心です。そこで見いだした"凡庸な悪"あるいは"悪の陳腐さ"について、諄々(じゅんじゅん)と説いてゆくのです。

 アイヒマンは、ナチスによるユダヤ人虐殺責任者の一人。ガス室のある、絶滅収容所へ送る列車移送を指揮。犠牲者、推計六百万人。逃亡先のアルゼンチンからイスラエル諜報(ちょうほう)機関が拉致し、世界注視の中、裁判にかけられ、絞首刑。

 映画には、当時の映像が出てきます。

 法廷のアイヒマンは、濃色の背広にネクタイを締め、前頭部ははげ上がり、めがねをかけ、ごく普通の役人か会社員風。

 こう言います。

 「将校は忠誠を誓います。誓いを破る者はクズと見なされます」

 これに対して検事は問います。

 「では総統の死後は、その宣誓から解放されましたか」

 アイヒマンは答えます。

 「自動的に解放されます」

 そしてこの移送指揮者は言い切るのです。

 「私は手を下していません」

 世界はアイヒマンを怪物と見ようとしていました。

 アーレントは違いました。映画ではこう言います。

 「そう単純じゃない。彼はどこにでもいる人よ。怖いほどの凡人なの」

 そこで凡庸な悪という言葉が記されます。しかし大論争を巻き起こします。彼女はアイヒマンの擁護者だ、という非難を激しく浴びせられるのです。

◆開高健も見て、書いた

 アイヒマン裁判は、日本の作家開高健も見ていました。傍聴記はアーレントよりも早く「声の狩人/裁きは終りぬ」という題で発表しています。有能な小役人の、凡庸だが深い罪を慎重に観察しています。こう書いています。

 <エルサレムに来た米国人観光客に裁判の感想を聞かれると、私は二つの答えを用意していた。疲れていない時には、日本に帰ってゆっくり考えて書くつもり。疲れている時には、ここでアイヒマンが裁かれているのに原爆投下責任者であるトルーマン(米国大統領)が責任を問われないでいるのはなぜだろうか>

 冗談めかして書くのは、その悪の本質が容易には理解されないだろうという思いからでしょうか。

 そこには、凡庸な悪を唱えて罵声を浴びたアーレントと重なるものがあります。悪は凡庸であるほど悪ではなく、もしかしたら勤勉な仕事に見えるかもしれない。つまり全体主義です。

 開高は、アイヒマンは釈放すべきだった、と結論づけました。焼きごてで彼の額に鉤(かぎ)十字を烙印(らくいん)して追放すべきだった、と。

 分かりにくい凡庸な悪を、彼自身をもって悟らしめ、語らしめ、それを私たちは決して忘れまいという主張でしょう。

 残念ながら、凡庸な悪は、今いくつも見つかります。

 たとえば、米国の無人機は非戦闘員も殺して、遠隔操作者は血の臭いすら知らない。若者をテロに誘う者は、自分らの正義の名の下に若者に人道を忘れさせようとしている。排外と差別です。

 戦争ではないが、世界に格差社会をつくっている強欲資本主義は人間の軽視において同列でもあります。原子力、核兵器の潜在的かつ永続的な怖さに目をつむり、また核を拡散させる者たちは…。

◆「考えよ」という教え

 もちろん、それらをナチスの非道とその残酷さにおいて同一視しようとは思いません。

 しかし、悪が凡庸、また陳腐であるがゆえに身近にあるのかもしれないことは、十分恐れねばならないことです。その悪に陥らないために、アーレントは、ひたすらにこう言うのです。考えよ、と。偉大な恩師で愛者でもあった哲学者ハイデッガーの教えたように。

 映画「ハンナ・アーレント」に人々は長い列をつくります。

 それは、私たちが、気づかないうちに、私たち自身に、また社会に持ってしまったのかもしれない凡庸な悪について、どうにかして気づこうとし

ている証しなのではないでしょうか。

(東京新聞 社説 2013・11・17)

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