−池田町に父を訪ねて−
「アメイジング・グレイス」のジョン・ニュートンではないけれど、あの悪い船長のように、私も神に救われ、神に仕える者と変えられた。「福音を伝えるべく、生まれ変わりし者であった。神の憐れみによって」救われた。
自分が救われると、自ら進んで苦しんでいる他の人々をも救いたいという願いが起きる。人はその願いの仕事にいそしむ事になる。
聖職者の道を示された時、神に誓願を立てた。
「これから先、あなたによって与えられるもののすべてをあなたと、み子キリストと、人々に捧げます」
神の燃えさかる愛の炎のその中にこの身を焦がしつつ、この喜びを少しでも伝えたかった。
特に母と私を捨てた父に、この喜びを是非伝えたかった。この世に生まれるきっかけをつくってくれた父に一言「どうも有難うございます」と感謝を伝えたかった。その一言で父の心を救いたかったのである。
私が痛む体を引きずって「風と祈りと巡礼の旅」に出た理由の一つに父の魂を救いたいという願いが込められていた。過去のいきさつも、とらわれもない。こだわりもない。神の愛(慈悲)の前に、私は解放され、自由自在であった。
神は私に執着と過去を断ち切る力をお与え下さった。そこには、他者、己の区別がない。行くも帰るも進むも止まるも、心のあるがままに自由である。
神が「こうせよ」と仰せられたところに従って進むので、悩むこともない。キリストが愛されたように、苦しむ人々と共に、その苦しみの中にとどまることを、私は喜んで選んだ。
救われた者の姿を見て、私の魂は喜びに満たされたいと望んだ。その救いのためなら、たとえ地獄の業火もいとわない。その炎の中に分け入ってでも救いたい!
「父に対する私の気持ちにうそ偽りはない。子として親を恋い慕う気持ちは年齢に関係はないのだから」と思った。それが私の自然の心であった。
釧路に親しい人がいたが、夜中でもあったし、祈りつつ通過した。抑え難い愛慕の念から、思い切って、帯広市の池田町に父を訪ねた。
8月14日、午前10時10分、JR池田駅前のタクシー乗場に私はアイン号をとめ、アイと立っていた。根室から夜通し走って来た身に暑さがこたえた。内陸の池田町は朝から日差しが強く、じりじりとアスファルトの舗装道路を焼いていた。
(つづく)
「心の旅路」より抜粋