アントニオ・チゼリ「この人を見よ(Ecce Homo)」(1871)

【避けられぬ運命】

母からの最大の贈り物は「情け」だった。

人情味の深い母は、生来の気質に自分が体験した苦労が加わり、気の毒な人を見捨てられない人だった。

封建的な九州のしきたり、家風、家の格式が生活に及ぼす弊害が私自身生まれた時から付き纏った。

父と母の結婚も親同士が決めた、庄屋同士の政略結婚。

ただ従うしかないのが実状であった。

父は庄屋の次男坊であったが、長男が若死にしたので、嫌々跡継ぎを承諾した。

ただし条件付きであった。

その条件とは?、当時日田でもあまり見かけない、アメリカ製のT型フォードの車を買って父に与えること。

祖父母はさぞびっくりしたと思うが、負けて買い与えてしまった。

ある日、下の街までドライブに行くと言い、車に乗って家を後にした父はやがて音信不通になった。

我が家系は、庄屋同士の政略結婚だらけで、愛情や人の情けは存在しなかった。

ただ家の都合が最優先して、個人の尊厳は無視された。

母はお腹にいる私を大事にして婚家の(血縁関係あり)離れ屋から逃げ出せず、籠の鳥同然であった。

そのうち父はふらっと帰って来る、皆、勝手に考えていたが依然として音信不通、消息不明であった。

堪り兼ねた母の実家から非難の声が出た。

父の実家は息子の家出を母の未熟のせいにした。

母の実家は父を甘やかした、ろくでなしと非難した。

離縁話の障害は、私を誰が引き取り育てるか?になった。

母の実家は、私の養育の責任は父方にあるから、母一人を引き取り再婚を考えていた。

父方は拒否した。

妥協案は、同じ庄屋で酒造りの井上の、子どもに恵まれない一族の養子縁組みであった。

私と井上準之助の関係は彼の姉が私の祖母であったことと深く関わる。

しかも井上家に一時的にしろ養子縁組みをさせられた。

準之助の隔世遺伝子を私はかなり引き継いでいると親戚中に言われた。

井上と父の実家古後家は母方から敵視された。

【愛情と面子】

母は私を不憫に思い、自殺まで考えたと聞かされた。

しかし幼い私の無心な笑顔を見てはとても自分の手には掛けられない。

母は私を抱えて秘かに上京する決心をした。

母の妹が私たち親子を必死に支えた。

しかし家出は、ばれて母の長姉の家に引き取られた。

また、籠の鳥同然の生活が始まった。

しばらくして驚く知らせが届いた。

消息不明の父は北海道にいた。

日田の堂尾(どうの)から丁型フォードを走らせて何とか北海道の十勝郡池田町に着き、タクシー会社を立ち上げたと父方の祖父母に知らせてきた。

田舎は大騒ぎになった。

迎えに行くとか?私たち親子を北海道に連れて行くとか?

婚家同士の面子ばかりが問題となり、私たち親子は蚊帳の外に置かれていた。 

【母の決断】

囚われ同然の家の主は九州でも有名な腕の立つ表具師であった。

その弟子に神戸の美術学校を卒業した若い男がいた。

愛川高一。

絵を描き、バイオリンを弾いた。

私から見れば義理の叔父当たる木藪忠義は、母が信頼した数少ない身内だったと聞かされた。

その弟子と母は再婚を決意して北海道行きを断った。

運命に従うしかない選択。

母の決断がなければ、今の私は存在しなかったし、ましてや牧師になり苦しい人々のサポート役などあり得ないと思う。

【母の死】

私一人のために自分を犠牲にして運命を自然体で受け入れた母から人の情けがいかに大切なものかを身を持って知らされ、体験した。

母は日田の我が家、柿の木の見える二階で54年の短い生涯を静かに閉じた。

母から伝えられた財産、情けを私は大切に守って生きてきた。

損得勘定ではないが人情が時には誤解され疑われ、非難されたこともあるが、これで良かっと思う。

どや街でもそうだったが、ほんのちょっぴりした心遣いがラザロさんたちの生きる力になったし、人間関係を円滑にするには、”人情→情緒”が欠かせない。

【私の仕事】

心身ともに望まない境遇に不本意に閉じ籠められた心は情けー人間の情緒力で助かる。

人を癒す力は温かい心から出る。 

宗教の出発点は難しくない。

温かい心から出るのだから!

愛の樹オショチ†

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