【按手】

退学時、私は先生から聖職者となる按手礼を秘かに受けた。

按手→頭に手を置き神の権威,祝福を受ける儀式。(創世記48:14,マタイ19:15,民数記8:10,27:18-23)

新しい人生の門出となった。

【断食】

箱根大涌谷、7日目。

宵の明星、金星を見つめていた。

星は西に傾きながら夜明け前の一瞬の暗闇に覆うわれていく。

しばらくすると、夜のベールを宇宙の巨人が静かに剥がしていく。

山の稜線が薄い紅化粧して恥じらいを見せている。壮大な宇宙シヨーを眺めていたら、空腹感は消え、高揚感が湧いてきた。

清浄な山の霊気にうたれ霊感に浸されている実感がある。

残りの水を飲んだ。

舌に甘味を感じた。

辺りを見回し頭を下げ合掌して、馬酔→あしびのツツジの林のなかのゴツゴツした火山岩を腹這いして抜けだし、箱根神社の境内にいた。

ここには長年、信仰的に尊敬するお方がおられる。

神社と寺が混在する、不思議な杉の大木に囲まれた奥まった場所に風雨に曝されて長年孤高の立ち姿を変えてはいない。

優しく、毅然とした姿に永遠の生命を感じた。

緑青が長年の風雨に耐えてきた証である。

私は物言わぬお方に断食終了と誓願を報告した。

そのお方は、浄土真宗の始祖親鸞上人である。ふるさと日田の我が家の菩提寺で子供の頃から親しんだお方であった。罰が当たりそうだが、身内の親しさがある。

【洗礼者ヨハネ】
私は荒野に住む、洗礼者ヨハネにも親近感を抱いていた。

彼の人生は破天荒である。

洗礼は今は、キリスト教会において、新しい会員になるための大事な儀式となっているが、ヨハネやエッセネ派の人々が行っていた洗礼は体を清めることによって罪も清めると言う、当時のユダヤ人がミクヴエ(水槽の中で行う沐浴の儀式)であったと言われる。

マタイ伝の記者は次の様に記述している。

イエスが壮年になった頃、ヨハネはヨルダン川に現れた。

そして、ヨルダン川のほとりで、人々にバプテスマをほどこしていた。

しかしヨハネは言った。

「わたしより力のある方が、後からおいでになる。わたしは水でバプテスマを授けたが、その方は聖霊によってバプテスマをお授けになるであろう。」

イエスもナザレから出てきて、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた。

イエスが水から上がると、神の霊が鳩のごとく降り(くだり)、
神の声が聞こえたという。「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」(マタイ3章)。

ヨハネに触れたらきりがない。

ヨハネはその時代の神の預言者として、又、乱れた政治、特に、ヘロデ・アグリッパ王とその妻ヘロデアに神に従い犯した罪を悔い改めよ!と激しく迫った。後述する。

「洗礼者ヨハネ」レオナルド・ダ・ビンチ画

【書くことの大変さ】

泣き言、愚痴のように聞こえるが、たかが自分史を書くのも大変である。

先ず、自分と闘わなければならない。理由はいくつかあるが、持病と闘い、物忘れとも闘わなければならない。

書きっぱなしの自分史、回顧録は無意味だし虚しいから書きたくもない。

書く価値もない。

私が書きたいのは神の奇跡の体験談と感謝の気持ち。

更に大事なことは来世、天国の消息である。

あまり飛躍的になるとミスのリスクも高まるので、過去を整理しながら、最後の奇跡、肉体の死を超えた世界に到達したい。

未来志向なら書く気持ちになる。

そのためにも聖書の中から出来るだけ正確に神を知り、み子に触れたい。

記憶力がだんだん薄れていくから、聖書辞典、他の文献も参考にさせてもらう。

そうしながら特に年代、人物、様々な時代背景を取り込んで欠けた部分を補う。呆け防止にも役立つ。

まだ全て学んだ記憶を失った訳ではないが、ある種の不安はつきまとう。今でも学習によって、多少の記憶の欠けた部分は埋められるが出来ないことがある。

それは一瞬の閃きである。

記憶に残らないから始末に悪い。

私は身近にペンとメモ帳を置いて寝る。

夜中だろうがなんだろうが時間とは無関係である。

最近、天路歴程・地路歴程は、加齢を楽しむ気持ちにピッタリくる仕事に思えてきた。

続きます。

愛の樹オショチ†

追伸:処暑を過ぎても厳しい暑さが続きます。私事ですがお気遣いのメールをいただき、ありがとうございます。感謝いたします。

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1件のコメント

  1. オショチ†の師との出会い……
    霊を語る人は、ちゃんと霊を見ていたのだと思いました。

    箱根を修行の場とされておられたオショチ†が、なぜ修行を?

    その後、城山の納骨堂での断食祈祷や、私との出会いになるのですね。

    手から砂が溢れるように、落ちていく人を救いたい………

    熱いものを感じました。
    オショチ†の決心と覚悟が、修行へと導かれたのかと思いました。

    毎晩眠る前に、箴言を一章ずつ読んでいますが、自分に出来ない事ばかり書かれています。
    でも、これは出来ないけれど、出来るようになりたいと思います。
    もし、こんな事ができたら嬉しいな〜、素晴らしいな〜と思いながら、箴言を読んでいますが、自分には修行も出来ないと思いました。

    オショチ†との出会いが、自分の人生を変えてくれました。

    一度、指の間から溢れ落ちた私を、再び手に戻してくれる。
    溢れて落ちた砂の私を、もう一度拾ってくれる。

    オショチ†のお陰で私は生きています。
    オショチ†のお陰で私は神様に覚えられています。

    何度でも、溢れて落ちた砂をかき集め、再び握って下さる神様への、執り成しと、導きを心から感謝しています。

    箱根での修行は、後に出会う私の為だったのですね。

    ありがとうございました。

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